『ゴッホ<自画像>紀行』 木下長宏 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
II 自問する絵画 — 自画像の時代
4.日本の僧侶(ボンズ)のように — アルル(その2)

ゴーギャンがアルルにやってきた。二人は、はじめのうちは、一緒に絵を描いたり、美術館に行ったりしたが、しだいにすれ違が多くなり、ゴーギャンはパリに戻ろうと決める。そして、ゴーギャンが黄色い家を出てアルルのホテルに泊まったその日に、ゴッホは左耳の耳たぶを切るという事件を起こしてしまう。それからしばらくしてゴッホは倒れてしまうような発作が襲うようになる。
アルルで入退院をしている時に描いた「自画像」が2枚ある[図55、「耳に包帯をする自画像」、1889年1月、油彩、カンヴァス]、[図56、「耳に包帯をする自画像」(パイプをくゆらす)]、[1889年1月、油彩、カンヴァス]。この二つの自画像は、服装などは同じだが、一方はパイプをくゆらせ、もう一方はくわえてえていない。著者は、ほぼ同時に描かれたこの2枚の雰囲気は対照的であるとしている。
パイプを銜えている方は、静かな穏やかな表情をし、画面全体もそんな雰囲気に包まれている。背景に浮世絵が描かれている方は、表情は不安げで、画面全体に落ち着きがない。(抜粋)
アルル時代のゴッホは、「ひまわり」の絵を多く描いた。しかし、「ひまわり」は自己表出性が高いが、自画像とは言えない。むしろ、ゴーギャンが来てから二人の椅子を描いた作品は、二人の愛用の家具を通してその人柄を描いたものなので、一方は自画像と言える[図57、「ゴーギャンの椅子」、1888年11月、油彩、カンヴァス]、[図58、「「ヴィンセントの椅子」、1888年11月、油彩、カンヴァス]。
ゴーギャンの椅子には、本二冊と火のついた蝋燭が2本載っている。これは、ゴーギャンが灯りを照らす存在として象徴されている。一方、ゴッホの椅子は、ゴーギャンの椅子よりも質素で、たばこの葉とパイプが載っている。また、その後ろには芽を出した玉ねぎが載っている。その玉ねぎは、これから成長する自分を象徴しているとも料理に使い切らないうちに芽をだした、つまり、役に立たない存在としての自分を象徴しているとも読める。
パリ時代の「靴」[図40]でも見たように、自己の物に託した自画像の方が、ヴィンセントの場合、正当(オーソドックス)な自画像の体を成している。つまり、彼自身の性格や考えていることを表現している絵になっている。
自分の鏡像を描いた自画像では、「自分」を描くというより、自分自身を絵画的な「物質」として扱おうとするヴィンセントである。(抜粋)
この後に、ゴッホがラヴァルと交換した「自画像」[図59、1888年11-12月、油彩、カンヴァス]の説明が簡単に書かれている。
図55 | 「耳に包帯をする自画像」1889.1 | http://www.vggallery.com/painting/p_0527.htm |
図56 | 「耳に包帯をする自画像」1889.1 | http://www.vggallery.com/painting/p_0529.htm |
図57 | 「ゴーギャンの椅子」1888.11 | http://www.vggallery.com/painting/p_0499.htm |
図58 | 「ヴィンセントの椅子」1888.11 | http://www.vggallery.com/painting/p_0498.htm |
図59 | 「自画像」1888.11-12 | http://www.vggallery.com/painting/p_0501.htm |
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