『ゴッホ<自画像>紀行』 木下長宏 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
III 弱者としての自覚 — 自画像以降の時代
5. 遠くへのまなざし — サン・レミ・ド・プロヴァンス(その2)

ゴッホは、パリに行って「芸術家」としての「自由」を教わったが、しかし、芸術はカンヴァスの枠の向こうにある世界を描き出さなければならないという考えは捨てなかった。 農民や労働者に共感し連帯しなければならないという信念は持ちつづけていた。しかし、突然の発作によりその立ち位置が変わってしまう。
農夫や「労働者の手と胃」を持つことができない人間になってしまったのである。弱者の傍にいる、と胸を張って言うことができない。弱者を救うどころか、みずから救われなければならない弱者になってしまったのである。(抜粋)
サン・レミ施療院では、自画像を書くことも無くなり、レンブラントやドラクロワ、ミレーなどの複製銅版画の模写をするようになっていた。その中にレンブラントの「ラザロの復活」[図65、1632年、銅版画]がある。ゴッホはこの縦長の銅版画を横長に変更し、イエスを退場させている[図66、「レンブラント『ラザロの復活』模写」、1890年5月、油彩、紙]。著者はこの絵を広義の「自画像」に入れてもよいとしている。
やはり、若いころ親しく読んだ聖書の物語は、どこか疼くところがあって、ヴィンセントは、なにかしら聖書のメッセージに惹かれているのである。「日本の僧侶(ボンズ)になった自画像」(アルル)からキリスト教による蘇りを待つ「ラザロ」に託した自画像へ。ヴィンセントの自画像に対する姿勢は大きく転位した。(抜粋)
この後、著者はサン・レミ施療院で描いた自画像はそれまでの自画像とトーンが違ているとして、ゴッホの各時代の自画像についてまとめている。
パリ時代
まず、自画像を集中的に描いたパリ時代は、
鏡に映る自分の像を忠実に写すのではなく、鏡に映る「自分の像」を描いて、色彩と筆遣い(ストローク)が独自の表現力を見せる「絵画」を追求しようとしたのである。(抜粋)
としている。
アルル時代
そして、アルルに移ったゴッホは、その豊かな風景の影響もあり単なる鏡像の自分を対象にする機会は少なくなる。
「タラスコン街道を行く画家」[図51]のように、「自分」を自然のなかの一景物として描くようになる。あるいは「日本の僧侶(ボンズ)になった自画像」[図53]のように、他者に仮装した「自分」を作ってみるようになる。色彩や筆遣いが独自の意味を持つ絵画を追求する心構えは変わらないが、「日本の僧侶(ボンズ)になった自画像」は、仮装した「自分」の像を描いて、「自分とは何者か」を表明しようとする絵であった。
こうして、「自分」という存在を描くことへ、ヴィンセントが関心を傾けていったときに大きな事件が起こり、彼自身の思想的なそして倫理的位置が逆転する経験をした。(抜粋)
サン・レミ時代
サン・レミでは、画面上は、一般に「自画像」と言われるものを描くようになった。
絵を描くことによって断念した牧者になる夢を実現しようとする絵画的実験への野心は後退したのだ。野心は後退したとはいえ、色彩と筆遣いの表現力によって精神的な描写を追求できるという絵画的な信念は生きている。それどころか、野心が委縮すればするほど、信念は燃え続け、彼は憑かれたように制作したのだった。(抜粋)
サン・レミ時代でゴッホの「自画像の時代」は終わる。
図65 | レンブラント「ラザロの復活」1632 | Searching now. |
図66 | 「レンブラント『ラザロの復活』模写」1890.5 | http://www.vggallery.com/painting/p_0677.htm |
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