『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第四章 「春眠暁を覚えず」 — 大詩人のえがく世 1 唐・三百年の王朝(その1)
今日から「第四章 春眠暁を覚えず」に入る。まずは第1節「1 唐・三百年の王朝」である。
ここで著者は、文学史での唐代の四つの時期「初唐」「盛唐」「中唐」「晩唐」に分けて解説するとしている。
そして、これを“その1”「初唐」、“その2”「盛唐」と“その3”「中唐」「晩唐」の3回に分けてまとめることにする。それでは読み始めよう。
「貞観の治」、唐王朝の成立と繁栄の基礎(初唐)
全国を統一した隋王朝は、わずか四十年で滅亡し、隋末期の動乱を平定してし李淵が唐王朝の初代皇帝となった。
唐王朝の繁栄の基礎は、二代皇帝の大宗李世民である。彼は「玄武門の変」というクーデターで、兄の太子李建成を殺して即位した。しかし、即位後は英明な君主となり「貞観の治」とたたえられる安定した政治状況をもたらす。
「創業は易く守成は難し」、太宗と魏徴(初唐)
太宗は、臣下と活発な討議をした。そして太宗が重臣の魏徴に対し創業と守成のどちらが難しいかと質問したところ、魏徴は「創業は易く守成は難し(事業を始めるのは簡単だが、維持してゆくのは難しい)」と答えた。
「人生 意気に感ず 功名 誰か復た論ぜん」魏徴の詩(初唐)
この魏徴は、『唐詩選』(明・李樊龍編)の冒頭を飾った五言古詩「述懐」の作者でもある。「人生 意気に感ず 功名 誰か復た論ぜん(人として生まれたからには、自分と意気投合した者のために命をかけるもの。功名など問題にならない)」は、成句としてよく用いられる。
「能書は筆を選ばず」欧世南と初唐の芸術(初唐)
初唐では魏徴のような力強い詩人が続々と出現した。そして書のジャンルでも東晋の王義之に勝ると称えられた欧世南、褚遂良、虞世南などの名手が現れた。
このうち一番の名手、欧世南は「能書は筆を選ばず」と称えられた。
則天武后と政治の新しい時代(初唐)
のちに中国史上空前絶後の女性皇帝となる則天武后は、最初太宗の女官だった。そして、太宗の死後、即位した息子の高宗のパートナーとなりしだいに力を振るようになった。そして、名門貴族出身の王皇后を押しのけて皇后の座に就く。
この皇后の交替は政治的意味を持っていた。隋時代から始まった科挙制度による進士出身の新興官僚層が則天武后を支持し、従来の貴族官僚が王皇后を支持していた。そして則天武后が皇后になったことは、新興官僚が勝利したことを意味した。
高宗の時代より実質的な最高権力者だった則天武后は、高宗の死後に息子の中宗、睿宗を傀儡皇帝とし、最後に自らが「武周革命」に即位し周王朝を立てた。これにより、李氏の唐王朝は一旦滅亡する。
「自家薬籠中の物」狄仁傑(初唐)
則天武后は、有能な政治家だったが、権力欲が強く、極端な神秘主義だった。そのような則天武后に怖めせず臆せず諫言して諌めたのが「国老」と呼ばれた狄仁傑だった。
彼は則天武后に多くのすぐれた人物を推薦し、その才能を引き出し重任にあたらせた。そして彼らは狄仁傑を敬愛しの門下に集まる。
狄仁傑は門下に集まった人々を「自家薬籠中の物(わが家の薬箱の薬のように、いつでも必要なときに取り出して、役立てられる人材)」と言った。
後世では意味が広がり「思いどおりに使うことができる人や物のこと」を言うようになった。
狄仁傑が死去した後、則天武后が病気になると、療養中にクーデターが起き息子の中宗に譲位させられた。中宗の復位により、則天武后の周王朝は十五年で幕を閉じることになる。
コメント