『「モディ化」するインド』湊 一樹 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第6章 グローバル化するモディ政治(その2)
今日のところは、第6章「グローバル化するモディ政治」の“その2”である。“その1”では、トランプ大統領の訪印時に行われた「ナマステ・トランプ」イベントを例にしてモディ政権の外交戦略が書かれていた。今日のところ“その2”では、モディ政権下でのヒンドゥー至上主義の進行、特にイスラーム教徒を狙い撃ちにした「市民権改正法」と「カシミール地方の自治権剥奪」についてである。それでは読み始めよう。
高まるヒンドゥー至上主義の脅威
市民権改正法の成立
トランプ大統領の訪印(“その1”参照)の二ヵ月前の二〇一九年一二月に「市民権改正法」が成立した。この市民権改正法について政府は、宗教的迫害から逃れるために周辺国からインドに入国し、その後も市民権(国籍)を持たないまま滞在しつづけている宗教小宗派に対して、市民権を与えるもの、と説明している。
しかし、この市民権改正法の対象は、
- 二〇一四年以前に
- アフガニスタン、パキスタン、バングラデッシュからインドに入国した
- ヒンドゥー教徒、シク教徒、ゾロアスター教徒(パールシー)、キリスト教徒
である。つまり、イスラーム教徒が恣意的に対象から外れている。そして、イスラーム教徒が多数を占める三ヵ国から逃れてきた宗教的少数派の保護を目的とすることで、イスラーム教徒の除外を正当化している。
この法律は明らかにイスラーム教徒を排除するのが目的であり、宗教的少数派の保護を目的としていない。それは、インドに滞在するロヒャンギ難民が対象でないなど、宗教的少数派の保護を目的とするには明らかに不十分であることなどを見ても明らかであると、著者は指摘している。
この法律の最も大きな問題は、この法律によりイスラーム教徒だけが市民権を奪われる可能性があるからである。
モディ政権は、この法律が成立する直前に「国民登録簿」の作成を通して、市民権者を確定する作業(逆に言えば市民権を持たない者を特定する作業)を全国的規模で実施する意向を表明した。そして、インドでは住民登録が十分整備されていないため、証拠書類の不備などを理由に、市民権を拒否される人が続出することが予想される。
国民登録簿の作成が全国規模で実施され、登録条件を満たしていないことが判明したとしても、ヒンドゥー教徒などには市民権改正法によって市民権を得る道が開かれることになった。しかし、その可能性があらかじめ排除されたイスラーム教徒のあいだでは、全国規模で国民登録簿を作成するという政府の宣言によって、市民権を失うかもしれないという危機感が一気に高まった。(抜粋)
デリーでの暴動
このように、宗教によって国民の分断を図ために市民権を政治の道具とするモディ政権に対し、イスラーム教徒だけでなく幅広い世論から反発が起こった。そして市民権改正法に対してインド全土で抗議活動が起こった。
そして、二〇二〇年二月、首都デリーで大規模な暴力事件が発生した。そして、この暴力事件は市民権改正法に対する抗議活動が暴徒化したのではなく、与党BJPの政治家の呼びかけに応じたヒンドゥー至上主義の支持者たちが、抗議活動の参加者とイスラーム教徒をターゲットにして起こした暴動であった。
暴動による死者は五三人、重傷者の多くは銃器や鋭利な刃物による深い傷を負っていた。暴徒による破壊、放火、略奪が起こりその大部分はイスラーム教徒の所有のものであった。さらにこの一連の暴力行為はイスラーム教徒を標的にした組織的なものであった。
著者は、この暴動時にデリー警察がヒンドゥー至上主義勢力による暴力行為を黙認していたとしている。具体的には
- ヒンドゥー至上主義勢力による煽動が野放しになり、暴動が数日間にわたって続いた
- ヒンドゥー至上主義による暴力行為を警察が積極的に止めようとせず、逆にイスラーム教徒ばかりを逮捕した
- 暴動が発生する以前からデリー警察は市民権改正法に抗議する市民に暴力を用いた過剰な取り締まりをした
ことなどである。このデリー警察は、市民権改正法を主導した内務省の管轄下であるため、与党とその庇護下にあるヒンドゥー至上主義勢力と歩調を合わせていた。
カシミール地方の自治権剥奪
国際NGOのフリーダムハウスは、二〇二〇年三月に公表した年次報告書のなかで、イスラーム教徒の基本的人権がつぎつぎと侵害されているとして、インドの現状に強い懸念を表明した。(抜粋)
この強い懸念には、上の市民権改正法とカシミール州の自治権剥奪をあげている。
カシミール州は、複雑は経緯を経てインド連邦に編入されたこと、人口の多数がイスラーム教徒あることなどの理由で、インド憲法第三七〇条により特別な自治権が認められていた。
ところがインド人民党(BJP)は、これを批判して、二〇一九年総選挙のマニフェストにも、カシミール州の自治権剥奪を一つの目標に掲げていた。そして、選挙で大勝すると、公約のとおりモディ政権は憲法第三七〇条の効力を停止する議会手続きを経て、カシミール州の自治権を剥奪した。
この自治権剥奪は、周到かつ迅速に実行された。モディ政権は、現地への治安部隊の追加配備、観光客の退避を完了させ、自治権剥奪の前日に外出禁止令を指揮、カシミール地方の有力政治家の身柄拘束、インターネット・携帯電話・固定電話の遮断をした。これは、この自治権剥奪に対して大きな反発が起こることを予想してのことである。そして、自治権剥奪により起こったデモは治安部隊が力ずくで抑え込んだ。その様子は、通信手段の遮断を乗り越えて、いくつかの海外メディアが報道した。しかし、モディ政権はカシミール地方は「日常」が保たれていると宣伝し、主要メディアもそれに沿った報道を行った。
二〇二三年一二月一一日、インド最高裁はジャンムー・カシミール州の自治権剥奪と連邦直轄地への分割は合憲であると判断を示した。自治権の剥奪からすでに四年以上が経過しているなかで最高裁が下した判決は、その他の重大事件と同じく、やはりモディ政権の方針を追認するものだった。(抜粋)
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