『モチベーションの心理学 : 「やる気」と「意欲」のメカニズム』 鹿毛雅治 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第2章 モチベーション理論の展開(その5)
5 モチベーションの現象学 ― われわれはやる気をどう体験するのか
6 グランドセオリーからミニセオリーへ
ここでは、モチベーションの3水準(特性レベル、領域レベル、状態レベル)についての解説の後、ド・シャームの「モチベーションの現象学」について説明される。この理論は、「内発的動機づけ」の研究に大きく貢献した。
心理学では心理現象を、安定的な「特性」とその場その時体験する「状態」と2つの水準で考えることがある。モチベーションの強弱や変化についての理解のため、そのような水準に区別して考える。ただしモチベーションの場合は、「特性」と「状態」の間に「領域」レベルが加わる。つまり
- 「特性レベル」・・・「その人らしいモチベーション]
- 「領域レベル」・・・「領域や内容によって変化するモチベーション」
- 「状態レベル」・・・「その場その時のモチベーション」
の3水準で考え、その3つの水準がお互いに影響を及ぼしていなその場その時(状態レベル)のモチベーションを規定していると考える。
これらの3つのレベルのうち、「今、ここ(here and now)」における心理現象、つまり状態レベルこそがモチベーションの最重要ポイントである。(抜粋)
この状態レベルのモチベーションは、中長期的に領域レベルのモチベーションに作用し、さらには特性レベルのモチベーションにも影響を与えると考えられる。
この部分は、長い例や図をもって解説されているところなので、分かりづらいよね。ざっくり勉強の例で言うと、
- 特性レベル・・・・勉強ができる子とできない子のモチベーション(安定)
- 領域レベル・・・・それぞれの科目とか、できる子でも嫌いな科目はやる気が出ないよね、でも、できない子だって好きな科目はある。そう!体育とかね♪
- 状態レベル・・・・これは、授業中のモチベーションですかね。
できる子(特性レベル)の嫌いな科目(領域レベル)とできない子の好きな科目の授業中のモチベーション(状態レベル)は同じくらい?と相互に影響するって事ですね。(つくジー)
この本を読み進めていくと、時々「モチベーションの3水準では、・・・」とか出てくる。これはかなり重要な概念らしいですよ(後記)
ここまでは、外部の観察者からの視点でモチベーションを理解していたが、このモチベーションは、われわれの内部で生じている体験である。そのため、モチベーションを個人の内部から理解するという視点も大切である。
「モチベーションの現象学」を提起したドゥ・シャームは、当人のこのような主観的な感覚がモチベーションに及ぼす影響に着目し、特に内発的動機づけの研究に大きく貢献した。(抜粋)
人は「やらされている」という感覚に対して本質的に嫌悪感を持つ。賞罰に基づく外発的動機づけに対しては、ネガティブな感覚がつきまとう。ドゥ・シャームは、これをチェスの指し手(オリジン)とコマ(ボーン)にたとえオリジン-ボーン理論を提唱した。チェスプレーヤー(指し手)に動かされている感覚を「コマ感覚」、反対にチェスプレーヤー自身の動かしている感覚を「指して感覚」と呼んだ。
ドゥ・シャームの考えが端的にわかるのは以下のフレイズである。
人間は環境側からエネルギーが与えられない限り動かないような「石」ではない。また人間は、自動的に一定の動きをするが他者から操作される必要のある「機械」でもない。人間は、自分自身の行動を生み出す原因そのもの、すなわち「指し手」なのだ。(抜粋)
ドゥ・シャームは、この「指して感覚」を「内発的動機づけ」、「コマ感覚」を「外発的動機づけ」と再定義した。(「内発的動機づけ」「外発的動機付け」に関しては、ココ参照)
次に、主観的な体験としての観点から、意欲的な心理状態について考える。
何かの課題に意欲的に取り組んでいる心理状態を「エンゲージメント」と呼ぶ。これは当面の課題に没頭している事であり、頭と心と体が活性化した「今、ここ」での主観的な体験を意味している。
そしてこの「エンゲージメント」には、
- ①行動的エンゲージメント・・・どの程度、課題に注意を向け、努力し、粘り強く取り組んでいるか
- ②感情的エンゲージメント・・・どの程度、興味や楽しさといったポジティブな感情を伴って取り組んでいるか
- ③認知的エンゲージメント・・・どの程度、ものごとを深く理解しよう、ハイレベルの技能を身につけようといった意図を持ち、自分の活動についてきちんと計画し、モニターし、自己評価するような問題解決プロセスとして取り組んでいるか
の3側面がある。
最後に、著者はこのエンゲージメント状態にある人の努力の感覚に注目してこう記している。
エンゲージメント状態にあるとき、われわれは果たして努力していると感じているだろうか。答えは「否(いな)」だろう。目の前の課題に没頭して、行為がスムーズに進行するこの状態において、われわれは努力を意識しないのである。この点に関して、マズローが「努力しない状態で課題に専念できることこそ、本物の努力の姿である」という逆説をのべており、興味深い。(抜粋)
グランドセオリーからミニセオリーへ
第2章では、代表的な「グランドセオリー」(外発的動機づけ/内発的動機づけ、欲求理論、期待×価値理論)が紹介されている。
しかし、著者はこのようなグランドセオリーだけでは、モチベーションの精緻な理解はできないとして、第3章から第6章まで、代表的な「ミニセオリー」を紹介するとして章を閉じている。
この「本当に努力している状態では、努力しているという感覚がない」という話で、『英語達人列伝』の著者、斎藤兆史の『努力論』を思い出した。たしか、本当の達人というのは、ほんとに没頭しているので、努力しているという感覚などない…ってなことだったと思った。原書にあってません・・・すいません。(つくジー)
関連図書:
斎藤兆史(著)『努力論』、中央公論新社(中公文庫)2013年
斎藤兆史(著)『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』、中央公論新社(中公新書)2000年
斎藤兆史(著)『英語達人列伝II かくも気高き、日本人の英語』、中央公論新社(公新書)2023年
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