佐渡への配流(その3)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 佐渡への配流(その3)

前回の第四章、その2では、『開目抄』のが取り扱われた。今日のところ、その3では、同じく日蓮が佐渡で執筆した『観心本尊抄』について解説されている。


『観心本尊抄』

日蓮は、『開目抄』を書いた後、塚原からより環境のよいいちのさわの土豪、一谷入道の屋敷に移される。そこで文永一〇年(一二七三)に『観心本尊抄』を書き上げる。

『観心本尊抄』の正式名称は『にょらいめつひゃくさいかんじんほんぞんしょう』である。ここで「如来滅後五五百歳始」は、仏の入滅後の五百年ずつに年代を区切った第五の五百年の始めを意味している。
だいしゅうきょう』による、仏滅後を五百年ごとに次第に時代が悪くなっていくという考え方である。その区分は

  • 最初の五百年:解脱けん時代:正法が盛んで解脱を得る者が多い
  • 第二の五百年:禅定堅固時代:解脱を得る者はいないが、ぜんじょう(瞑想)はさかん
  • 第三の五百年:もん堅固時代:仏道を実践する者は少ないが、知識を求めることは、さかん
  • 第四の五百年:ぞうとう堅固時代:塔寺の建造がさかん
  • 第五の五百年:とうじょう堅固時代:邪険がはびこり、とうじょう(争い)がさかん

である。
当時の日本では、永承七年(一〇五二)に末法に入ったとされたように、文永一〇年(一二七三)ごろに仏滅後第五の五百年の始めの年にあたると考えられていた。

それゆえ、この題名には釈迦入滅後の第五の五百年までの間にかつてなく、今、初めて弘通する勧心本尊という意味と、滅後二千二百二十余年にまだ現れていない勧心本尊を第五の五百年(末法の時代)の始めに弘通するという意味を含んでいると言われている。(抜粋)

この『観心本尊抄』を日蓮は前代未聞の大事を著した秘書と位置付けていた。
日蓮はこれをじょうにんに副状をつけて送り、副状には、みだりに公開せず、三・四人で集まって読んではいけないとした。さらに

更なる国難をも顧みず五五百歳を期して書いたこと、この書を一見した者が師弟ともにりょうぜんじょう三仏(『法華経』「けんほうとうほん」に見える釈迦仏・多宝仏。十方分身仏)のがんぼう(尊顔)を拝見したものだ、と述べている。(抜粋)

ここから『観心本尊抄』の内容の解説に移っている。
『観心本尊抄』は、次の三部に分かれる

  • 第一部 一念三千について論じた部分
  • 第二部 日蓮独特の題目・本尊について述べた部分
  • 第三部 末法について述べた部分

第一部

『観心本尊抄』は、天台大師智顗の『摩訶止観』の一念三千説の引用から始まる。そして著者は、

この一念三千説と『法華経』(唱題)との関係の説明が『観心本尊抄』の肝といえる。(抜粋)

としている。
日蓮は、天台大師智顗の一念三千説が仏説の核心であることを、疑問に問答で答えている

まず、一念世三千説では、我々衆生の心の中にまで仏の世界までもすべて含まれている点については、まず、「人の顔(心)には、喜び、怒りなどの種々の感情や欲望が浮かんでは消える。これらの感情や欲望は、人の心の内にある地獄、餓鬼、天上などといった六道の現れである」とし、さらにしょう(声聞、緑覚、菩薩、仏)の世界については、「我々が無常を知るとき、無常を観じて悟りを得る二乗(声聞・縁覚)世界が現れている。また、悪人でも妻子の慈愛の情を持つ際には菩薩の世界が現れて、それゆえ仏の世界が現れているはずである」としている。
日蓮はこのように一念三千説と『法華経』信仰を結び付け第二部で日蓮独特の題目論を展開する。

第二部

第二部で日蓮は「妙本蓮華経」の五文字に仏界が備わっているという独特の説を展開する。日蓮は次のように言っている。

これに勝手に私の解釈を加えることは、法華経の本文を汚すようなことである。しかしながら、経文の真意は、釈尊が悟りのために修したいんぎょうと、悟りによって得たごくはすべて妙法蓮華経の五文字に具わっているというものである。私たちがこの妙法蓮華経の五文字を受持・しんぎょうするならば、おのずからその因行と果徳を譲り与えてくささることになる。(抜粋)

「妙法蓮華経」という題目に、釈迦の功徳、仏の世界が集約されている。それゆえに「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることにより、凡夫は釈迦の一切の功徳を得る。

日蓮は智顗らの一念三千をぎょう(理論にとどまる行)とし、唱題をぎょう(利他のための行)と位置づけること至った。(抜粋)

文永六年(一二六九)の「十章抄」では、唱題は在家者が行う行とし、修行者は一念三千の観法をするように区別していたが、『観心本尊抄』では、事行としての唱題の優位性を主張し、日蓮門下全員がするようにと指摘している。

なお、日蓮は、『立正安国論』の執筆などを通じて、法然批判を展開していたが、日蓮による唱題重視の背景には浄土宗系のしょうみょう念仏「南無阿弥陀仏」への対抗意識があったと考えられる。(抜粋)

日蓮は文永一〇年(一二七三)以来、中央に「南無妙法蓮華経」と書き、周囲に諸仏・菩薩の名を記した文字曼荼羅を自ら書いて門人に譲与したが、その原理が『観心本尊抄』に書かれている。

日蓮は文永一〇年に「大曼荼羅本尊」(「けんのほんぞん」)を書いていこう一二〇点以上の「大曼荼羅本尊」を作成した。この「大曼荼羅本尊」は佐渡に配流される前に書いた「楊子の本尊」はシンプルな本尊であったが、この「大曼荼羅本尊」は『観心本尊抄』の原理を具体化したものである。

第三部

『観心本尊抄』の第三部で、日蓮は『法華経』は末法の衆生を主な対象としているとする説を述べている。
永承七年(一〇五二)に末法に入ったと考えられ、山門派と寺門派の対立など仏教の衰退が意識された。そうした状況で、法然、親鸞などの浄土教系の僧たちは、末法である娑婆世界(この世)とは別世界に阿弥陀の極楽浄土に救いを求めた
一方、日蓮は『法華経』は、末法であるこの世の衆生を主な対象とするとしてこの世での救済を主張した。

日蓮は、『法華経』では、釈迦がこの世界に出現して教えを説いた目的は末法の衆生のためであるとしている。そして

「今は、末法の始めであり、小乗教が大乗経を打倒し、ごんきょうが実教を破折し、東西の区別もなく、天地もさかさまに認識される。法華迹門の教えを広める道師は隠れて出現しない。また、諸天善神も謗法の国を見捨てて、守護することはない。こうした時に、釈尊より布教のじょくを受けた地涌の菩薩が初めて世に出現し、妙法蓮華経の五字」を弘通する、とする。すなわち、日蓮は、今の世は末法の始め(とくに第五の五百歳の始め)であり、先述した地涌の菩薩が『法華経』の題目を弘通すると主張している。(抜粋)

日蓮は、末法は不幸な時代でなく、釈迦の究極の真理である『法華経』を地涌の菩薩により広められる時代であると考えていた。

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