『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
おわりに
あとがき
長々と読んできた『日蓮』だが、今日で修了である。今日のところは、「おわりに」と「あとがき」である。著者は「おわりに」で、本書の狙い、執筆で注意したことなどを振り返っている。そして「あとがき」では、本書を書き終えた後の話が書かれている。
著者は本書の狙いを、日蓮の人生を分かりやすく解説することであるとしている。そして、これまでの同様な本のなかには日蓮系の教団に属する著者によって書かれたややバイアスがかかった書作もあるため、出来るだけ客観的に、歴史学的な手法を使い平坦に述べることを心掛けたとしている。
そして、本書の新しいこころみとして、
日蓮がライバル視した鎌倉極楽寺忍性といった律僧との関係に大いに注目した点である。(抜粋)
としている。
資料として使用した『日蓮遺文』の使用する際の態度について書かれている。
『日蓮遺文』は、日蓮の自筆の手紙や書物を収集・編集されたものえあるが、その中には、日蓮に仮託して作成された偽書も収集されている。そのため資料として使うためには、注意が必要である。
研究者によっては、日蓮の確実な真蹟が残る(かつて真蹟が残っていた)遺文だけを集めた『平成新修日蓮聖人遺文集』のみを使い、日蓮を論じる研究もある。
しかし、著者の『日蓮遺文』に対する態度は次のようであるとしている。
私は、その点に十分に注意しつつも、史料批判を行って、偽書の疑いがある遺文もできるだけ使用しようとしている。喩えて言えば、一枚に偽札があるということは、それとよく似た真札が流通していたわけで、偽札も分析の仕方、使い方によっては、真札の分析に使用できるからだ。(抜粋)
そのため、『三大秘宝抄』のように、偽撰とされてきたが、近年は真撰とする見解もある遺文も、その内容・世界を明らかにするようことを務めたとしている。
また、著者はこの『日蓮遺文』を読んでいて、
闘う殉教者、末法の世に『法華経』(そのエッセンスである「南無妙法蓮華経」)を広める使命を負った上行菩薩の化身としての日蓮像と、信者の悩みに寄り添う優しい日蓮像のギャップには驚かされた。(抜粋)
としている。そのような日蓮の両面性も表現出来ていれば幸いであるとしている。
著者はこのように言っているが、もともと本書を読むきっかけは、NHKの100分de名著シリーズの『日蓮の手紙』の放送を見た事でした(ココ参照)。そのため、どちらかと言うと、このような手紙と、他宗をバシバシ叩いている日蓮とのギャップの方に驚かされたのでした。(つくジー)
次に、著者の研究の中で本書『日蓮』に位置についての言及がある。
著者は、多くの研究のなかでも「鎌倉新仏教論」をライフワークとし、「鎌倉新仏教とは何か」「鎌倉新仏教の新しさとは何か」について研究してきたとする。
特に
- 浄土真宗の開祖親鸞と、真言律宗の開祖叡尊及びその高弟の忍性について
- 僧侶集団が官僚的な官僧と私僧である遁世僧に二つがあること
を明らかにしてきた。そのため著者は、日蓮と叡尊・忍性との関係に言及し官僧と遁世僧という視点を持っている。
そして、本書の限界について、次のように語っている。
先述したように、日蓮は配流されたこともあって、生きている時代に布教に成功したとは言いがたい。やはり彼の名を高らしめたのは、「はじめに」で少し触れた近代の日蓮主義運動と創価学会などの新宗教の活動である。それゆえ、本書においてもそうした活動と日蓮について触れるべきかもしれないが、残念ながら、筆者にはいまだにそれらに私見を述べる準備ができていない。別の機会を期したい。(抜粋)
次に、本書では引用した資料は、基本的に現代文訳を使用したとし、もし原文を見たい場合は、立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文』(一~四)を参照にして欲しいと書かれている。
関連図書:
『日蓮遺文』
米田淳雄(編)『平成新修日蓮聖人遺文集』日蓮宗妙法山連紹寺、1995年
立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文』(一~四)
[完了] 全20回
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