『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 立正安国への思いと挫折(その5)
今日のところは、前回のその4につづいて『法華経』の教理論のまとめについてである。
迹門と本門
天台宗では、『法華経』二八品を前半の一四品を迹門、後半の一四品を本門という。迹とは、感覚で捉えられない本質(本という)が、感覚世界にあらわれることをいう。この迹門と本門の違いは、説かれる仏身の違いによる。
- 迹門:仏身は、人間釈迦である
- 本門:仏身は、「如来寿量品」で明かされる仏
八〇歳で入滅する歴史的な仏は、人々が分かりやすいように、人間の姿を取ったに過ぎず、仏の真の姿ではないというのである。真実の仏は、想像を絶するはるか過去(五百塵点劫という)に既に悟りを開いたというのである。この仏こそ、迹門の仏に対する本当の仏、本門の仏である。(抜粋)
大乗仏教では、仏の入滅を過去の存在としてではなく、永遠なる存在としてとらえ直し、『法華経』は、他の別世界でなく、この世界において、生きた仏の永遠性を主張した。
本門の最初にあたる第一五品の「従地涌出品」では、釈迦の説法を聞くために霊鷲山に集まった弥勒をはじめとする多数の菩薩たちは、仏滅後の娑婆世界で『法華経』を護持し布教する許可を釈迦に求めたが、釈迦は許さなかった。その時に、地が震え地表が裂けて、突然、地の下から上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩に率いられた無数の菩薩たちが湧き出してきた、釈迦は、それらの「地涌の菩薩」(大地から出てきた菩薩)たちをかつて自分の教えを聞いた弟子たちと紹介する。そこにも釈迦の永遠性が示されている。釈迦は、自己の入滅後は世の中は乱れ愚悪の時代が到来するだろう。そうした苦難の世には、弥勒ら今世で初めて仏の説法を聞いた者たちはその難に勝って法を広めることができない。遠い過去世において教化を受けてきた地涌の菩薩たちだけがその困難な任務を遂行できる。それゆえ、地涌の菩薩たちに『法華経』の弘通(教えを広めること)を委嘱する、と言う。ここでは、日蓮が、地涌の菩薩たちの代表である上行菩薩に自己を模していた点にも注目しておこう。(抜粋)
ちょっと長い引用になってしまった。ここの地涌の菩薩が地面から湧き出してくる場面は、何かのアニメ?だったかでみたような気がする!(ゴゴゴゴゴゴゴと菩薩が沸き上がってくる凄い場面だったけど、こういう深い意味があったんですね。)
それはそれとして、『法華経』が、他の別世界でなく、この世での生きた仏の永遠性、つまり“この世での救済”を主張したという所が、日蓮が念仏を否定して『法華経』を主張した理由なのだと思う。あの世での救済に重きを置くと、この世で生きることが疎かになってしまう。日蓮は、そうではなくて『法華経』のあくまでもこの世の救済が大切であるといっているのかな?と思った。
そう思ったのも、同じようなことが、この前読んだ「コヘレトの言葉」(これとこれとこれ)の本にも書いてあった。同じ旧約聖書にある「ダニエル書」と「コヘレトの言葉」を対比して、「ダニエル書」が復活を信じ彼岸に重きをおくのに対して、「コヘレトの言葉」では、あくまでも現世に重きをおいているのでした。まぁ、くわしくは「コヘレトの言葉」を読んでね♪(つくジー)
『法華経』の三部構成
次に『法華経』の成立論であるが、これは三部に分ける三段階説が有力である。
- 第一部:序品から第九品の「授学無学人記品」までが最も古い時代に成立した。ここでは、第二品の「方便品」の誰でも仏となれるという思想が中心
- 第二部:第一〇の「法師品」から第二二の「嘱累品」までが第一部遅れて成立したとされる。久遠の釈迦を説く「如来寿量品」を含む。釈迦入滅後の如来の活躍が多く書かれている。
- 第三部:第二三の「薬王菩薩本事品」以降であり、薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩などの種々の菩薩信仰が語られていて、本来別々に発展したものが『法華経』に取り入れられたものとする。成立時期は最も遅い。
日蓮は第二部の菩薩の実践を説く諸品を重視し自らをそれらの菩薩に重ね合わせている事である。
とりわけ第二部第一五品の「従地涌出品」の地涌の菩薩たちは、『法華経』を護り、久遠の釈迦に従うべく、地面から涌き出してきたのであるが、日蓮はこの地涌の菩薩に自己を同化させていく。(抜粋)
関連図書:
小友 聡 (著) 『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 日本キリスト教出版局 2019年
小友 聡 (著) 『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』 NHK出版 (NHKこころの時代)、2020年
若松 英輔、 小友 聡(著)『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 、NHK出版(別冊NHKこころの時代宗教・人生)、2021年
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