「青春の日々にこそ」
小友 聡『コヘレトの言葉を読もう』より

Reading Journal 2nd

『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第12章 青春の日々にこそ

青春の日々にこそ
お前の創造主に
心を留めよ。
(コヘレト12.1)
[新共同訳]
若き日に、あなたの造り主を心に刻め
[聖書協会共同訳]

最終章の12章は、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という有名な言葉から始まる。しかしその後に意外な言葉が続いている。

苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びがない」という年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。
月や星の光がうせないうちに。
雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
(1-2節)
[新共同訳]
災いの日々がやってきて「私には喜びがない」と言うよわいに近づかないうちに。
太陽と光、月と星が闇にならないうちに。
雨の後また雲が戻って来ないうちに。
[聖書協会共同訳]

コヘレトを虚無主義者と見るならば、苦しまないうちに「創造主に心を留めよ」と皮肉ったように取れる。しかし著者は

今この時を創造主から与えられた掛け替えのない賜物として受け止めなさい。こういう呼びかけが、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という言葉に込められているのだと思います。(抜粋)

と言っている。そして、当時の寿命を考えるとこれは決して若者への呼びかけではなく、あとどのくらい生きられるだろうかと考える多くの人にもあてはまるとしている。

この後にながい不思議は詩文が引用されているが、著者はこの一つ一つの比喩について説明した後、この詩文の結論は「人間の死こそが終末である」であると読み解いている。これも、やはり彼岸的な黙示論的終末に対峙している。

冒頭の詩文が「空しい」で始まり、結末の詩文が同様に「空しい」で終わることも偶然ではありません。コヘレトでは「空しい」(へベル)は決して悲観的な「空しい」ではありません。時間的な「短さ」、言い換えると「はかなさ」「つかの間」「瞬間」という意味であって、それは人間に与えられている生の時間を表現しているのです。
このへベルをどう生きるか。短いからこそ、つかの間だからこそ、この時を徹底して生きよ。諦めるな。今、こうして生きているだけで丸もうけではないか。そのように生きることへの強烈な励ましのメッセージが込められています。(抜粋)

最後に、「コヘレトの言葉」の最終部を抜き出しておく。

それよりもなお、わが子よ、心せよ。
書物はいくら記してもきりがない。
学びすぎれば体が疲れる。
すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
それこそ、人間すべて。
神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるだろう。
(12-14節)
[新共同訳]
わが子よ、これ以外のことにも注意せよ。
書物はいくら記しても果てしなく
体はいくら学んでも疲れるばかり。
聞き取ったすべての言葉の結論。
神を畏れ、その戒めを守れ。
これこそ人間のすべてである。
神は善であれ悪であれ
あらゆる隠されたことについて
すべての業を裁かれる。
[聖書協会共同訳]

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