「太陽の下での不幸」
小友 聡『コヘレトの言葉を読もう』より

Reading Journal 2nd

『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第6章 太陽の下での不幸

太陽の下に、
次のような不幸があって、
人間を大きく支配しているのを
わたしは見た。
(コヘレト6・1)
[新共同訳]
太陽の下、私はある災いを見た。
それは人間に重くのしかかる。
[聖書協会共同訳]

第6章は、第4章に対応している。第4章では、太陽の下での「虐げ」が主題であったが、第6章では、「不幸」(=「災い」)が主題である。つまり、この太陽の下の不幸は一体何であるかが問題となる。


ある人に神は富、財産、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これはまた空しく、大いに不幸なことだ。
(2節)
[新共同訳]
神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。これも空であり、悪しき病である。
[聖書協会共同訳]

これは、コヘレトの時代に存在したと考えられる「黙示的思想」を批判している。黙示思想では、現世を否定して来世に希望を持つため、現世では富も財産も名誉も否定していた。

黙示思想的運動においては、富を享受し人生を楽しむということがありません。結局、富を他人の手に渡してしまいます。コヘレトはそれを「大いに不幸なことだ」と語っているのです。(抜粋)

人の労苦はすべて口のためだが
それでも食欲は満たされない。
賢者は愚者にまさる益を得ようか。
人生の歩き方を知っていることが
貧しい人に何かの益となろうか。
欲望が行き過ぎるよりも、目の前に見えているものが良い。
これまた空しく、風を追うようなことだ。
(7-9節)
[新共同訳]
人の労苦はすべて口のためである。
だが、それだけでは魂は満たされない。
愚かな者にまさる益が知恵のある者にあるのか。
人生の歩み方を知る苦しむ人に成の益があるか。
目に見えるほうが、欲望が行き過ぎるよりもよい。
これもまた空であり、風を追うようなことである。
[聖書協会共同訳]

この部分は、直前の6節にある「すべてのものは同じひとつの所(死)に行く」から読み取れる。ここで「欲望(魂)が行き過ぎる」は死を意味し、「目の前にみえるもの」は生を意味している。このことより、コヘレトは死ぬことよりも生きることに意味があると言っている。

6章の最後は「人間、その一生の後はどうなるかを教えてくれるものは、太陽の下にはない」で締めくくられている。コヘレトは、「死後に何があるかを人は知りえない」と認識している。

けれどもコヘレトは神を否定しているのでもなければ、信仰を捨てたわけでもありません。コヘレトによれば、終わりとは人間の死にほかならず、歴史の終末は存在しません。今、生きていることに意味があります。旧約の知者コヘレトには、死によって限界づけられ生こそが神からの賜物です。生きることは、神に生かされることです。死という終わりがあるからこそ、人生に意味がある。このように生を無条件で肯定するのがコヘレトの人生観だと言えます。これは現代人にストレートに伝わる生き方なのではないかと思われます。(抜粋)

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