『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第7章 死ぬ日は生まれる日にまさる
弔いの家に行くのは 酒宴の家に行くのにまさる。 そこには人皆の終わりがある。 命あるものよ、心せよ。 (コヘレト7.2) [新共同訳]
弔いの家に行くのは酒宴の家に行くにまさる。そこには、すべての人間の終わりがある。生きる者はそれを心にとめよ。 [聖書協会共同訳]
本章のタイトルを読んで、誰もがぎょっとするでしょう。(抜粋)
著者は、7章をこのように書き始めている。そして、コヘレトの意図を「生きるよりも死んだ方がまし」ということではなく、「死という終わりがあるという認識」と「死という終わりがあるからこそ、人生は意味がある」ということであると解説している。
賢者さえも、虐げられれば狂い 賄賂をもらえば理性を失う。 事の終わりは初めにまさる。 気位の高いよりも気が長いのがよい。 気短に怒るな。 怒りは愚者の胸に宿るもの。 昔の方がよかったのはなぜだろかと言うな。 ・・・・・・・・・ 神の御業を見よ。 神が曲げたものを、誰が直しえようか。 順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せて造られた、と。 (7-10、13-14節) [新共同訳]
虐げられれば知恵あるものさえおろかになり 賄賂をもらえば理性を失う。 事の終わりは始めにまさる。 気の長さは気位の高さにまさる。 気がせいていらだってはならない。 いらだちは愚か者の胸に宿るものだから。 「昔は今より良かったのはなぜか」 と言ってはならない。 ・・・・・・・ 神の業をみよ。 神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう。 幸せな日には幸せであれ。 不幸な日にはこう考えよ。 人が後に起こることを見極められないように 神は両者をつくられたのだ、と。 [聖書協会共同訳]
この段落は、箴言のような格言が並んでいるように見えるが、コヘレトには一貫した意図がある。ここでは、一貫してコヘレトが批判する論敵、すなわち歴史が終末に向かっているという黙示的歴史観を批判している。
「人が未来について無知であるように」神が順境と逆境を併せてお造りになった、というのは終末到来の否定にほかなりません。「未来」は「終末」とも読めます。(抜粋)
そして、「わたしという人間の死」こそが終わりであり、その死を通して人生を意味づける。それが、「死ぬ日は生まれる日にまさる」として冒頭に示している。
この後、長文の意味が取りづらい引用文があり、それをヘブライ語の多義語の意味使って謎解きをして、その部分もやはり黙示思想を否定であることが示される。
「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ
人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せて造られた、と。」
というのは、キリスト教徒ではない自分にも、なかなか深い言葉のように思う。まぁ、なんだかそんなもんなんですよねぇ~キット。
ちなみにこの「両者」は「順境と逆境」のことで・・・平たく言えば「人生は山あり谷あり」@人生ゲームですね♪(つくジー)
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