人生のはかなさを知る(後半)
小友 聡『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』より

Reading Journal 2nd

『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第2回 人生のはかなさを知る(後半)

コヘレトの言葉には、「ソロモン王の企て」と称される部分がある。ここでコヘレトはイスラエル最盛期の王で莫大な富と最高の知恵を備えたソロモンに成り代わって語っている。そして、

富と地位と知恵、あらゆるものを手にしたソロモンは、「すべての喜びを享受し」「すべての労苦を喜」びました。しかし、最後に「すべては空であり 風を追うようなことであった」と結論するのです。(抜粋)

コヘレトはなぜソロモン王のふりをして「すべてへベル」であると語るのか?これは、イスラエルの民の歴史と関係している。ソロモン王の時代に絶頂を迎えたイスラエルの繁栄は長く続かなかった。つまり輝かしいソロモン王の栄華も、振り返って見れば束の間(へベル)であったのである。

著者は、ここで、コヘレトの言葉と新約聖書にある「山上の説教」の類似性について指摘している。「山上の説教」で、

イエスは、「栄華を極めたソロモンでさえ」「着飾っていなかった」と言い、衣服や食べ物のことで思い煩うな、と人々を戒めます。野の花が美しく造られているように、人間も、等しく神の恵みを受けた存在であると説いているのです。いわゆる「ソロモンの栄華」という言い回しの由来となった部分です。
私は、イエスが野の花になぞられて語ろうとしたもう一つの真理に注目します。それは、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる」野の草、その命の儚さ、束の間の命です。つまりへベルです。(抜粋)

人生は結局、束の間(へベル)であるとコヘレトがソロモン王の名を借りて語っていることをイエスもここで語っている、と著者はいっている。

コヘレトは、この束の間の人生を、「心地よく食べて飲」むことが幸せであると語っている。これでは、まるでコヘレトは享楽主義者であるかのようである。しかしコヘレトは、「日々の飲食を楽しもう」と言っているのであって、享楽を勧めているのではない。

人生は短いのです。限りがあるのです。けれども、限られているからこそ、束の間であるからこそ、意味があるのだと、コヘレトは逆説的に教えてくれます。飲み食いを賛美する言葉は、決して享楽主義から出たものではありません。そのことに気づけば、飲み食いというごく日常的な小さな幸せは、「神の賜物」であり、至福の喜びだということが分かるでしょう(抜粋)

これは、飲み食いだけの話ではなく、人生は束の間(へベル)だからこそ、小さな日常の出来事がすべて神からの恩寵であることが分かる。

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