「中国戦線の栄養失調症」(その2)
藤原彰『餓死した英霊たち』より

Reading Journal 2nd

『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 餓死の実態 – 7 中国戦線の栄養失調症(後半)

このようにして、この壮大な第一号作戦は開始された。この後、その作戦の実際の状況と、それに伴う餓死の様子が解説されている。

兵力約五〇万、馬約一〇万、自動車一・五万の大舞台を移動させる作戦は、それを支える兵站を確保することが大前提である。しかし、その計画は安易で独善的であった。
大本営は、現地の状況を考えずに兵站線を引き、補給の計画を立てたが、実際に補給のための道路を建設は、困難であった。制空権はすでに在中米軍が握っていて、河川や湖沼での舟艇の運行は妨害を受け、すでに道路は破壊され水田化されている場所も多くあった。また、修復のための資材も不足していた。作業の間、隊員の消耗は激しかったが、食料の供給は主食の米がわずかに補給されただけで、他の物は、徴発に寄らなければならなかったが、すでに近くの集落は廃墟と化していて、何一つ残っていない状態だった。そして、この期間の肉体的疲労が後に多数の栄養失調死者を出す原因となった。このような状況のため、工事は遅れに遅れて、結局中止が決定され、道路構想は無駄になってしまった。

この工事は、著者の藤原自身も参加していたという。著者は、その時の状況を説明した後に次のように書いている。

このような無謀な計画をどうして、上級司令部が立てたのであろうか、地図の上に道路の線が引いてあっても、現状どなっているのか確かめたのであろうか。また部隊が泥まみれで苦闘しているとき、一人の参謀も現場を視察に来なかった。・・・・中略・・・・地図の上に兵站線の経路を立てたとき、現地の実情はどうなっているのかを確かめただろうか。架空の兵站計画に振り回されて、大きな苦労を味わされた、「歩」の一人として、疑問を感じ得ないのである。結局この乙兵站線構想は、大きな犠牲を払いながら、まったくの無駄働きに終わったのであった(抜粋)

作戦は、長期にわたり、そして第一線部隊の消耗が激しくなると、次々と内地から補充員が送られてくる。しかし、第一線への補給もほとんど行われていない状態であり、補充員への供給は極めて不十分であった。彼らは食料を現地で徴発しなければならなかったが、すでに第一線の部隊に荒らされていて、食料はほとんど残ってなかった。そのため第一線の部隊も増して補充員は飢餓に苦しんだ。著者は、このような補充員の損傷は記録が十分でないが、そのほとんどが栄養失調による病死であると推測している。

中国戦線での戦没者の総数は、中国本土で四五万五七〇〇人である。その全没者が最も集中したのは最後の二年間であり、ここでも、戦病死が戦死よりもはるかに多かった。
そして、ここで注目に値するのは“戦傷死者”が多い事である。つまり、負傷した後に野戦病院で死亡する者が多かった。それは、患者への給養がきわめて悪かったためであり、これも広い意味での餓死である。

著者も中隊長として部下を戦傷は戦病で野戦病院に後送すると、ほとんど死んでしまうという体験をしている。このことを知っているため、兵は負傷しても野戦病院へ送られることを嫌がり、迷惑をかけないように頑張るから、このまま隊に置いてくれと懇願するようになっていた。つまり病院送りは餓死に通じていたのである。(抜粋)

関連図書:長尾五一(著)『戦争と栄養』、西田書店、1994年

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