エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一七 帝政のローマ
第17章もローマの話。第16章は、キリスト教の誕生の話だったが、今日のところはローマの発展と衰退、そして分裂の話である。
ローマ帝国内の人々はのんびりと暮らすことができた。ローマの街道は見事に整備され、公営の駅伝が定期的に国境の町まで通っていた。各地の大都市には快適な暮らしのための施設が整っていた。貧しい人々たちようの高層住宅が建ち、個人の邸宅は、噴水の出る庭園をもち、冬には床に埋められた素焼きの管に、熱せられた風が送りこまれた。田舎には豪華な別荘も立ち並んだ。広場には市場、裁判所などといっしょにテルメと呼ばれる浴場があった。そして、何よりも驚くのはコロッセウムと呼ばれた劇場で最大5万人の観客を収容することができた。
しかし、ローマ皇帝は帝国を平和に保つために懸命だった。そのころ北ではゲルマン人がローマ人を悩ませていた。ローマはゲルマン人を国境で食い止めるためにライン川からドナウ川までの国境に沿いに濠と物見やぐらを備えた防塁、リメスを築いた。そしてローマは軍隊を国境に駐屯させなければならなかった。国境の要塞都市にもローマ同様に劇場や大浴場、役人の豪壮な邸宅、兵士のための広大な宿舎が築かれた。そして退役した兵士の多くは駐屯地近くに土地を買い求め、その土地の女性と結婚して定住した。そのようにして国境周辺の住民たちもローマの風習に親しんでいった。
ローマの皇帝たちは首都の宮殿にいるよりは、指揮者として国境の陣営に滞在する時間が長くなる。紀元100年頃に生きた皇帝トラヤヌスなどの優れた皇帝も現れる。紀元一六一年~一八〇年まで皇帝であったマルクス・アウレリウスは、静かな人間、哲学者だった。彼の日記は今日まで残されている。
それに続く皇帝たちは、生粋の軍人であり仲間の兵士よって選ばれ退位させられた。そのころローマ軍のなかでローマ人の割合は小さくなっていったため、ローマ人でなく異邦人が皇帝になることもあった。紀元二〇〇年ごろになると、東西の異邦人からなる軍隊は巨大化し、それぞれ自分たちの将軍を皇帝の地位につけた。そして、権力をめぐり殺し合った。このころにはローマは、乱れた悲惨な時代となり人々は自由人も奴隷もキリスト教徒となり皇帝を崇拝することを拒否する。
ローマ帝国の危機が頂点に達した時、紀元二八四年にディオクレティアヌスが皇帝となり、ローマの立て直しをしようとした。彼は一つの首都から帝国を治めることができないと考え、あらたに四つの都市を首都として四人の副帝をおいた。彼は厳しく皇帝崇拝を守らせ、全土でキリスト教徒を迫害した。二〇年の彼の治世の後、キリスト教徒との戦いは無意味であったことを知らされた。
彼の後継者の皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教徒との戦いを放棄した。コンスタンティヌスは、お告げを聞き三一三年にキリスト教徒を迫害しないことを決めた。また彼は、ローマで政治をすることをやめ、かつてのギリシアの植民地都市ビザンツを政治の場に選んだ。この地は以降、コンスタンティヌスの都、コンスタンティノポリス(コンスタンティノーブル)と呼ばれるようになった。
やがて紀元後三九五年にはローマ帝国はもはや二つの首都を持つのではなく、ラテン語を話す西ローマ帝国とギリシア語が話される東ローマ帝国に分裂する。そして、紀元後三八〇年にはその二つの国でキリスト教が国の宗教となった。
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