ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム(その3)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』より

Reading Journal 2nd

『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム(その3)

今日のところは「第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリスト」“その3”である。“その1”、“その2”では、ポピュリストが政権を握った時にどのように統治するかを、ポピュリストのロジックから考察した。ここで著者は、多くの専門家が使用する政権を握ったポピュリズムに対する「非リベラルな民主主義」という呼称について異を唱える。ここの節「政権を握ったポピュリズムは「非リベラルな民主主義」と同義なのか?」は、さらに二つに分けてまとめるとして、“その3”では、まず「非リベラルな民主主義」という呼称がどのように使われているかを考察する。それでは読み始めよう。

政権を握ったポピュリズムは「非リベラルな民主主義」と同義なのか?

まず著者は、政権を握ったポピュリストが、完全に選挙を廃止したり、完全に他の勢力を排除したりしないことについて、それは推論の範囲であるとしながら、完全に民主主義と断絶し剝き出しの権威主義となることはコストが高いと考えているからであると推察している。

公式に(officially)民主主義を廃止したり、あるいは少なくとも停止したりすれば、国際的な評判を多大にそこなうからである(抜粋)

そして、このような露骨な権威主義からの撤退を見て、多くの専門家がトルコやハンガリーの体制を「非リベラルな民主主義」と呼ぼうとしている

著者は、この名称は大いにミスリーディングであるとしている。なぜならばポピュリズムが傷つけているのは、民主主義それ自体であるからである。

「非リベラルな民主主義」

「非リベラルな民主主義」という用語は、「選挙は行われるけれども、法の支配が守られず、とりわけ抑制と均衡チェック・アンド・バランスが損なわれているような体制」をいう。

この用語は、ジャーナリストのファリード・ザカリアの論文(1997)で、人民に支えられた政府が「立憲的リベラル」の原則を決まって破棄していると主張したことに始まる。彼の「立憲的リベラル」には、政治的諸権利、市民的諸自由、所有権が含まれる。

「非リベラルな民主主義」という診断は、一九八九年以降の全般的な哲学的および政治的後遺症の証である。(抜粋)

リベラリズムの意味の考察

ベルリンの壁が崩壊し共産主義体制が終わった1989年には、世界中の人が民主主義社会においてマジョリティの支配と法の支配が調和すると考えた。しかしすぐに選挙によって生み出されたマジョリティがマイノリティの基本的人権を侵害し始めた。それは、「民主主主義の危機を封じ込めるために、リベラリズムが強化されなければならないといことだった」

この「リベラリズム」という言葉は、その曖昧さあり以前より左派も右派も批判した。

左派のマルクス主義者たちは、資本主義のリベラリズムが、市民の「私的自律」を保護し、一方、単なる「形式的自由」と偽りの政治的開放をもたらしたと非難した。

右派の側では、カール・シュミットがリベラリズムは失効したイデオロギーと主張した。リベラリズムは一九世紀では、議会で理性的に政策を議論したエリートを正当化したが、大衆民主主義の時代では、議会は個別利害関係者の取引をする場に過ぎず、対照的に真の人民の意志はひとりの指導者によって代表されうると主張した。同質な人民による喝采が適切な民主主義の目印となるとした。シュミットは、人民の実質と選挙などの結果との間に決定的な区分を行った。彼は人民の意志は選挙よりも、自明で反論し難い喝采によって表現されるとした。

そして1989年以降になると、シャンタル・ムフなどのリベラリズムの覇権を批判する人たちは、

「合理主義的な」リベラル思想は、民主主義に本来備わっている紛争および意見の相違のもつ正当性を否定するようになったと論じた。(抜粋)

これにより、ムフがコカ・コーラかペプシかの選択と評した「選択なき選挙」が提示されたという感覚が有権者の間に強まり、これにより、強力な反リベラルの対抗運動カウンタームーブメントが引き起っている。その最も顕著な者が右翼ポピュリズムであるという。

この政治理論上の論争を越えたところで、「リベラリズム」は ---- 合衆国では異なるにせよ、少なくともヨーロッパでは --- 制約なき資本主義を意味するようになってしまった。(抜粋)

そして、リベラリズムは、個人のライフスタイルの自由を最大化する表わす言葉にもなる。

そのため、反リベラルを掲げる指導者が、異なる形態の民主主義への賛同を得ようとする。エドリアンは、イスラムの道徳を強調し、オルバーンは、キリスト教的かつ国民的な政治ビジョンを取り入れる。

ここでの「非リベラル」は、強者がつねに勝つと決まっているような無制約な資本主義に反対することと、同性愛者のようなマイノリティの権利の拡張に反対することの双方を意味しているように見える。(抜粋)

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