ポピュリズムへの対処法(その1)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』より

Reading Journal 2nd

『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 ポピュリズムへの対処法(その1)

今日から「第三章 ポピュリズムへの対処法」に入る。ここでは、ポピュリズムが「民主主義の約束」と結び付いていることを示し、その答えられない約束「人民」の境界についてポピュリストが解決したように見せかけることが示す。そして合衆国とヨーロッパが置かれている歴史的状況を考察やポピュリストとどのように対話するべきか、ということについて、著者の見解が述べられる。

第三章は、4回に分けてまとめるとし、今日のところ“その1”では、ポピュリズムと民主主義の違いを中心に、その民主主義の約束が破られつつある現状考察である。それでは読み始めよう。


ここで著者は、「なぜ民主主義に深刻なダメージを与えると思われポピュリストがこれまで支持されているのか?」という問題を提起する。

三章で著者は、

  • ポピュリズムは、かつてイタリアの民主主義理論家のノリベルト・ボッビオが「破られた民主主義の約束」と呼んだもの支えられていることに注意を促す。
  • ポピュリズムは「人民」の境界を定めるのは何かという、自由民主主義が答えられない問題に対して、いかにも解決したように見せかけることを示す。
  • 合衆国とヨーロッパの固有の歴史的状況が今のようなポピュリズムの隆盛を促したことを示す。
  • ポピュリストとよく対話するための幾つかの示唆を与える

としている

ポピュリズムと破られた民主主義の約束

ポピュリズムの魅力が何から来るのかという問いに対して、著者は、ポピュリズムの成功は「民主主義の約束」と結びついていると提示する。

この民主主義のきわめて重要な約束として「人民は統治できる」というものがある。これは我々の社会では決して果たされない約束であるが、ポピュリストはこれを“できる”と主張し“できるかのように”主張する。

ポピュリストは、あたかもそうした約束を果たすことができるかのように語る。彼らは、人民が唯一の判断と唯一の意思をもち、それゆえ唯一の明快な委任を与えることができるかのように語り、行動する。人民がひとつで、反対派は仮にその存在が認められるとしても、すぐに消え去るかのように語り、行動する。さらに彼らは、人民が、正しい代表に授権さえすれば、自分たちの運命を完全に支配できるかのように語る。(抜粋)

ここから著者は、民主主義とポピュリズムの間にどのような差異があるかを一つずつ説明する。

[民主主義]
マジョリティが代表に権限を与える。その時代表の行動はマジョリティが望んでいたものと一致したり一致しなかったりする

[ポピュリズム]
「人民」が望んだという理由で、その行動に異議を唱えられないとする

[民主主義]
マジョリティは判断を誤りうること、交替しうることが前提

[ポピュリズム]
同質は実体(人民)が前提。そのアイデンティティや理念は完全に代表されると想定

[民主主義]
諸個人から成る人民を想定。最終的には(選挙で)数のみが重要

[ポピュリズム]
神秘的な「実質」が前提。マジョリティでさえその実質を適切に表現できないとする

[民主主義]
正しい手続きを経た決定も「道徳的」というわけではない。(反対派も非道徳的というわけではない)

[ポピュリズム]
決定は正しい道徳的な決定であることが前提

ここで著者は、代表制民主主義は、「人民」へのアピールなしでもなんとかなるかという問いを提起する。著者はそれが出来るとしている。

しかしそれは、牽引力を得られない。それは、「人民」でなく「政党民主主義」が消えつつあるからである。

かつて、政党は多元主義的な社会と政治システムを結び付ける役割があった。「敗者」もいつか勝利できるチャンスが存在することを確信しながら、決定に合意する必要があった。そして諸政党は一方が政府、他方が正当な野党を形成した。

彼らは、全体としての人民を排他的に代表にするとは、決して主張しなかった。彼らは、二つか、それ以上の競合する人民概念を提示し、それらの間の差異を強調したけれども、自らとは異なる側[の人民概念]も正統なものと認めていた(抜粋)

つまり、諸政党は多様性を代表し、政党システムは統一性を象徴していた。

現在、もはやこのような政党も政党システムも機能を果たしていないと多くの指標が示している。そして、政党システムが弱いところではポピュリズムが強い傾向がある。

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