ポピュリズムへの対処法(その2)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』より

Reading Journal 2nd

『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 ポピュリズムへの対処法(その2)

今日のところは「ポピュリズムへの対処法」(その2)である。前回の”その1“では、民主主義とポピュリズムの様々な違いを明らかにして、そして現在政党民主主義が弱体化していて、弱体化している国にポピュリズムの隆盛が起こっているとしていた。

今日のところ”その2“では、ポピュリズムに対する自由民主主義的な批判として、3つの問題、すなわち「人民の境界の問題(境界問題)」「多元主義の問題」最後に「どのようにポピュリスト対応するかの問題」について考える。それでは読み始めよう。

境界問題とポピュリスト — 第1の問題

まず著者は、「ポピュリストたちが国家に住む人民を経験的総計から「真の人民」を抽出し、それにより自分たちに異議を唱える市民を排除することは間違っている」ということをこれまで当然のように主張してきたしそれは皆が認める事だろうと言っている。

しかし、これには「何が人民のメンバーシップを決めるか」という重大な問題がある。これは「境界問題」としてしられ民主主義による明確な回答はない

この「人民のメンバー」に対して

  • ポピュリスト:正しい人民とそうでない人民を道徳的に区別する
  • 民主主義:市民権の保有くらいしか方法がない。しかしそれは、規範的な主張が含まれない。

ここで著者は、この「境界問題」について、二つの主張をしている。

  1. 一つは、ポピュリストが一方的に特定の人たちを排除しようとしても、誰もそれを正当化できない。そのような時には「わたしは、自由かつ平等な同胞市民としての彼らの地位を実際否定することなく、あらゆるやり方で、特定の人民を批判することができるのだ」と応じればよい。
  2. 二つめは、この「境界問題」は、政治的な高みから一気に解決できるような問題ではない。それはいちど決定したら変更不可能のものでもない。それは民主主義的な議論ディベートの問題である。

多元主義とポピュリスト — 第2の問題

ここで著者は、著者はポピュリストが否定する多元主義の問題について考察する。まず今まで「反多元主義」=「非民主主義」として想定してきた。しかし「多元主義」は、しばしばひとつの事実、ひとつの価値として提示されてきた。「境界問題」と同じように「多元主義」も自動的に道徳的価値を認められる概念ではない。また「自由」のような一時的な価値でもない。

したがってわれわれは、反多元主義の何が問題なのか、より正確にしておく必要がある。(抜粋)

ここで著者は次のように指摘する。

  • ポピュリズムの真の問題は、その多様性の否定が、特定の市民の自由かつ平等な否定となること
  • 多元性を認めるということは、多様な社会で生きるという経験的な事実の承認ではなく、自由、平等を尊重しつつ、アイデンティティや利害の点で異ならざるを得ない他者と、同じ政治空間を共有するための公正な条件を見いだそうとするためのコミットメントである(ジャン・ロールス)
  • 多元性の否定は、「わたしは、政体に関するわたしの考えや、人民に関する見解が、他のあらゆるもの勝る政治世界しか認めない」と言っていることと同じである。そしてこれは、政治について民主主義的な見方ではない。

ポピュリストにどう対応するか — 第3の問題

第3の問題は、ポピュリスト的指導者や政党に対して民主主義はいかに対応すべきかである。

多くの国での非ポピュリスト政党の反応は、「ポピュリストの周囲に防疫線」を張ることである。しかし、これではポピュリストに「既成政党は皆同じである」と主張されてしまう。

そして、このような排除戦略は、実践的な課題とは別に、原理的な問題もある。という問題がある。つまり「ポピュリストを排除するということは、反多元主義の批判と矛盾する」ということである。

わたしが提示するのは、ポピュリストが法の枠内にとどまる限り --- そして、たとえば暴力を扇動しない限り --- 、他の政治アクター(およびメディアの人びと)は、彼らと対話する(engage)多少の義務があるということである。(抜粋)

ポピュリストが議席を獲得した場合は、彼らは有権者を代表している。そして他の政治的アクターがポピュリストを無視することは、「政治的エリート」がポピュリストに投票した有権者無視するかそもそも気にかけていないといった感覚を強める。

しかし、「ポピュリストと対話すること」は「ポピュリストのように話すこと」と同じではない。彼らの政治的主張を額面通りに受け取ることなく、真剣に受け止めることは可能である。

ここで著者は、ポイントは「適切な論拠や証拠を出しても、議会や公共の議論、さらには選挙でポピュリストを敗北させられるわけでない」というだとしている。しかしそれは、適切な論拠や証拠が重要でないわけではない。そのような論拠や証拠の提示には一定の効果がある。

ここで著者は、さらに重要なこととして「象徴レベルでもポピュリストと対話すること」できると言っている。それは、ある政体の基本的なコミットメントが実際に何を意味するか問う形をとる。それは、以前は排除されていた一般の人々を象徴的に承認する結果となる。

ポピュリストは、しばしば虐げられ人々を民主主義的に擁護した。もちろんだからと言ってポピュリストのように、全体に代わりうる一部分という形をとる必要はない。

おそらく、既存のエリートが実践的かつ象徴的な包摂に向けて措置を講じる気があったならば、民主主義へのダメージはいくらか避けられただろう。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました