幸せはどこにあるのか(前半)
小友 聡『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』より

Reading Journal 2nd

『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第4回 幸せはどこにあるのか(前半)

今日から第4回目に入る。第3回では、有名な「時の詩」を取り上げ、時は束の間であり、決して捉えることのできない神の秘儀であることが語られ、そうだからこそ「今を生きるよ」というメッセージを読み解いた。第4回目では、コヘレトの社会批判について取り上げる。


コヘレトの言葉は、「人生を悲観するニヒリスト」や「世をは儚むペシミスト」などと言われてきた。これに反して、著者は、現代では新しい読み方をする人が増えているとしている。

実際、「コヘレトの言葉」には、現代に生きる私たちに身近な、現実的な内容が、意外なほど多くあります。それは、時に現代社会への痛烈なメッセージとも受け取れるのです。(抜粋)

第4章の冒頭で、コヘレトは「虐げる者」(搾取する側)と「虐げられる者」(搾取される側)を比較して、貧しい者、弱い者が、何をやっても報われない社会構造を批判している。コヘレトは、生きている者よりも「すでに死んだ人たち」さらには「まだ生まれて来ない人たち」の方が幸せだとまで言っている。
このような言葉を読むと、コヘレトはやはり虚無主義者であるかのようであるが、一方コヘレトは、このようなことも言っている。

私は知った。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に
   人の子らに幸せはない。
また、すべての人は食べ、飲み
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
これこそが神の賜物である。(3章12-13章)(抜粋)

ここで著者は、「労苦」は、ヘブライ語では「アーマール」で、伝統的に「労苦」と訳すがここでは「労働」「働くこと」ととらえた方がわかりやすいと、注意している。

コヘレトは、このように「労働」は辛いだけでなく「幸せ」なのだといっている。旧約聖書では、労働を単に苦しいものととらえていない。「労苦」を「幸せ」ととらえるのは、ユダヤ的な思想があるからである。

一方、コヘレトは「虐げられた者」の「労苦をいとう」と言っている。
コヘレトは常に弱者に暖かい視線を向け寄り添っている。コヘレトは、「銀を愛する者は銀に満足することがなく」や、「財産を愛する者は利益に満足しない」と言って、富めるものを批判している。そして、「たらふく食べても、少ししか食べなくても、働く者の眠りは快い」と言って汗を流して働く労働者は幸せであると言っている。コヘレトはお金じたいが罪とは思っていない。一所懸命働いた報酬は祝福であり神の賜物であると考えている。

ここで著者は、このコヘレトの眼差しは、イエスの眼差しと似ているといっている。
イエスも「貧しい人々は、幸いである」といっていて、それは「イエスが傍らにおられる」からであるとしている。

すでに幸いを与えられた人ではなく、与えられていない人こそが、イエスが真っ先に眼差しを向ける対象だということがわかります。ここに、逆説があります。今、マイナスを背負っている人は、真っ先にイエスの恵みを受ける人となるのです。
この逆説はコヘレトの言葉とよく似ています。(抜粋)


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