太平記ーー「武者詞」の活躍
山口 仲美 『日本語の古典』 より

Reading Journal 2nd

『日本語の古典』 山口 仲美 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

III 乱世を生きた人は語るーーー鎌倉・室町時代 19 太平記ーー「武者詞」の活躍

今日のところは『太平記』である。この『太平記』は、戦乱の五〇年を描いている軍記物語である。それなのになぜ「太平」という書名であるかは、最後に「太平」の世になったところで終わるからという説が有力である。
この『太平記』と同じ軍記物語である『平家物語』を比べると、『平家物語』の叙情性は姿を消し、より叙事的な記述となっている。そのため『太平記』では、戦場で使われる『武者詞』が多くみられる。っということで今回のテーマは「「武者詞」の活躍」である。では読み始めよう

『太平記』は、四〇巻からなる。内容上、以下のような三部に分かれる。

  • 第一部:(巻一~巻一一)後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画に始まり、楠木正成の活躍、鎌倉幕府の滅亡まで。
  • 第二部:(巻一二~巻二〇)後醍醐天皇の「建武の新政」から足利尊氏が北朝の天皇を擁立、南朝の敗北と後醍醐天皇の崩御まで。
  • 第三部:(巻二一~巻四〇)室町幕府の成立から尊氏、二代目将軍よしあきらの死去、そして幼い義満と補佐役の細川よりゆきの登場により「太平」の世となるまで。

『太平記』は、二十年以上にわたって書き継がれ、一四世紀後半に成立。著者は、小嶋法師、げん法印、ちん上人など多くの作者によって書かれた。

楠木正成の活躍と『太平記』

『太平記』では、楠木正成が人気者になる。楠木は、始終一貫して後醍醐天皇に仕え、ぶれることなく忠義を尽くした。そして、戦上ではさっそうとした英雄として描かれている。それに対して、足利尊氏はその時々の情勢で幕府側についたり天皇側に付いたり節操がなく、最後にはみずから天下を取ってしまう。そのような尊氏は、大衆には好かれない。

ここから著者は、『武者詞』をキーワードにして、楠木正成の活躍を追う。

楠木正成が武将として名を挙げたのは、千早城の戦いであった。僅か千人がらずで二百万騎の鎌倉幕府軍と対戦した。千早城は周囲四キロメートルの小さい城であるため、幕府軍は、

これをあなどり、初め一両日の程は、むかぢんをも取らず」。」(抜粋)

ここで、武者詞の「向い陣」が出てくる。この言葉は、敵陣に相対して構えた陣容のことで、『太平記』で始めて登場する武者詞である。
そして、幕府軍が千早城の入口を目指し、盾をかざして崖をよじ登ってきた時は、高いやぐらの上から大石を次々と投げ下ろす。そして逃げ惑う幕府軍に、

め差し攻めさんざんける」。(抜粋)

ここの「指し攻め指し攻め」も武者詞で、手早く矢を弦につがえて射る様子を表す。この戦いで、幕府軍には一日で五、六百人の死者が出た。
ここで、幕府軍は千早城の水を止める作戦にでる。しかし正成は、そういう時のために、秘密の用水路を確保してあり、さらに五、六十日分の水も備えてあった。正成軍は、幕府軍の油断をついて、奇襲をかけ幕府軍の旗を奪う、そして、それを千早城の正面に掲げて幕府軍を辱める。怒った幕府軍は、決死の覚悟で城の柵を打ち破って入り込み、城のすぐ近くの崖まで攻め込む、

たけに思へども、登り得ず」、(抜粋)
この時、城の中より、きりぎしの上に横たへて置きたる大木どもを、十、二十切て落しけたりける間、しょうだふしをする如く、よせ四、五百人しに打たれてしににけり」。(抜粋)

ここでも、心が勇み立つことを表わす「矢武に思ふ」という武者詞が出てくる。また、「将碁倒し(=将棋倒し)」も『太平記』で初めて出てくる武者詞である。

次に幕府軍は、「ちから(=武力に任せて攻めたれる戦略」)でなく「じき(=武力ではなく、食糧補給の道を断って降参させようという戦略)」に作戦を変える。
すると正成は、藁人形を二、三十体作って甲冑を着せ夜中のうちに麓に立て置き、前には「でふだて(=面の広い楯)」を突き立てる。そしてうしろに屈強の兵士を布陣して、薄暗い夜明けにときの声を上げて幕府軍に攻め込む。幕府軍は、正成方が「しみぐる(=死を覚悟して戦うこと)」になったとみて、反撃する。すると正成軍は、藁人形だけ残してこっそり城に帰ってしまう。幕府軍が藁人形を兵士と思いそこに殺到した。その時、正成軍は幕府軍に向かって大石を落とす。幕府軍は三百人程の兵士を失ってしまう。そして戦い終わってよく見ると、

人にはあらで藁にて作りたる人形なり」。(抜粋)

と幕府軍は笑いものになる。ここでも、「力攻め」「食攻め」「畳楯」「死狂ひ」などの武者詞を使って攻撃の様子を描いている。

最後に幕府軍は、梯子を作って城に攻め込む作戦にでる。すると、正成方は、梯子に松明を投げ、さらに「水はじき(=手押しポンプ)」で梯子に油を注いだ。梯子はめらめらと燃え上がってしまい。幕府軍の兵士はみな谷底に落ちてしまう。そして、助かった者もみな、国に逃げ帰ってしまった。

楠木正成は、このように見事な戦術で勝利を得る。最後に著者は次のように言ってこの章を締めくくっている。

正成の魅力は、この知略に長けた戦いぶりにあったのです。勝てる見込みのない戦を知謀を使って勝利する。それが英雄として賞賛を浴びえんです。(抜粋)

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